ニートのアンビバレンツな心情。

実家暮らしニートの心情をつづっています。感情の吐き出し、整理、思ったことなどなんでも。

パチンカスの親から実家パラサイトニートが生まれました。

うちは小さいころからずっと貧乏だった。
そのため、私はお金に対する欲求がものすごくある。欲しいのは「お金」。
 
じゃあお金があったら何を買うの?と聞かれれば「いや別にほしいものは特にないけど……」と答える。
でもお金があったらすべてが解決すると思う。
 
人生はお金がすべて。愛があってもお金がなけりゃ不幸だよ。
じゃああなたは今お金がなくて不幸なの?と聞かれれば「いやニートできてるし結構幸せだけど……」と答える。
 
このように大変お金に対してアンビバレンツな気持ちを抱いているわけだけどそれは置いておいて。

パチンカスの両親とパチンコ屋の前で待つ子ども。

親はいわゆるパチンカスというやつで、小さな子どもの私をパチンコ屋の前で3時間とか平気で待たせるような親だった。 18歳以下は入っちゃいけなかったから。
 
今考えるとすごいことをするよね。さらわれたりしても文句は言えない。
 
主に父親がパチンカスなのだけど、母親も流されて付き合っているから同類なのだと思っている。
 
小さいころの思い出は、パチンコ屋さんの前で両親を待っている記憶ばかりだ。
 
パチンコ屋の、じゃらじゃらした音。
自動ドアが開くと音が大きくなって、もしかしてお父さんかお母さんかな?と思う。目を向けると知らないおじさん。なんだ、と思ってまた、待つ。
 
パチンコ屋の前に椅子や休むところなんてないから、コンクリートに座り込んで。
携帯ゲームも、携帯もない時代だった。ただ、待つだけ。
暗くなる前の、真っ赤な空を、ぼけーっと眺めていた。ずーっと見つめていると、雲が動いているのがわかって、不思議だった。
 
私は待ちながら、お母さんとお父さんまだかなあ、今日はパチンコで「勝った」かな?
「勝った」らおいしいものが食べられるからうれしいけど、「負けた」ら機嫌が悪くなるから嫌だなあ、と思っていた。
 
家族で旅行に行ったことなんて、記憶にある限りでは、ない。
2歳とか3歳とかのときは、まだ両親は「まとも」だったから、旅行する余裕もあったらしいけど、記憶にないことは経験してないのと一緒だ。
 
たまーに勝つと、おいしいものが食べられるけど、大体の場合は負けてお金がなくなって機嫌が悪くなり、両親は喧嘩を始める。
 
そして私は両親に喧嘩をしてほしくなくて、小さいながらも「お金」がないから喧嘩するのだということを知っていた。
だから、親戚や祖父母からもらったお年玉などを貯めたおこづかいを親にすべて差し出した。私にとってお小遣いとは、両親が「負けた」ときに渡せるように、コツコツと貯めておくものだった。
 
両親が言う。「◎◎、お金貸して」
私は頷き、お年玉袋に入れたお札を渡す。お金は使うものではなく、両親に渡すものだ。
 
そのため、今もお金を使う行為は「気が引ける」。自分で貯めたお金であっても、間違ったことをしているような気持ち、罪悪感を感じてしまう。
 
返してもらったことはほぼないし、このまま一生返ってこないものだとわかっている。

子どものころはわからなかったこと、今ならわかること。

子どものころは疑問にも思わなかったけど、今考えると結構ひどい。
お金のことじゃなく、パチンコ屋で小さい子どもを待たせることのほうね。
 
とはいえ、今考えるからこそわかることもある。母は私を21歳のときに産み、父はそのとき22歳。
私がパチンコ屋の前でぼーっと待っていた記憶の始まりはおそらく幼稚園くらい。
 
私が5・6歳のとき、両親はまだ20代後半だ。遊びたい盛りだったのだ。
20歳から「親」をやって、母は「家族」のためにいろいろなことを犠牲にして、父は「家族」を養うために働いて、それはどんなに大変なことだろう。私にはできないし、できなかったし、これからもできないだろうと思っている。
 
子どもの立場に立って考えるととんだパチンカスだが、大人になると大変さに同情もできる。まあ、私はどこまでも「子ども」の立場なので、もっと普通の家庭に産まれたかったなあ、なんて恩知らずなことを考えてみたりもするのだけどね。
 
そういった両親の背中を見て私は育ち、「将来は絶対手に職をつけて自立した人間になろう。結婚はクソだ」と思いながら育った。
現在、私に手に職はないし、ニートである。結婚は相変わらずクソだと思っているし、実際モテない女であり、底辺中の底辺である。たぶん結婚はしないだろうと思う。
 
人生どうなるかわからないので、これから白馬に乗った王子様が迎えにきて私を見初めてくれて、結婚最高!と思えるかもしれない。
実際そんなことがあったとしても、そんな王子様に見合ったテイクを返せないので、こちらからお断りするだろうけど。
 
「貧乏の親から生まれた子ども貧乏になる」なんて趣旨の本があったけれど、私は今そういう輪の中にいるのかもしれない。
 
いつか抜け出して、貧乏な子どもでもお金持ちになれると証明してみせたい気持ちはあるけれど、そんなこと、できたとしても結局は運や才能や環境に恵まれているからだという気持ちは消えないのだろうな。